朝鮮戦争と吹田・枚方事件

 

戦後史の空白を埋める

 

脇田憲一

 

 ()、これは、脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』(明石書店、2004年3月)から、〔目次〕部分を抜粋したものです。抜粋の節、解説は、すべて全文転載で省略してありません。全体は、4章と後章、解説を合わせて、844頁の大著です。5、吹田争乱においては、検察側資料を入手し、活用したことにより、事件の真相が、一段と鮮明になりました。また、在日朝鮮人の活動と位置づけを詳しく分析しています。伊藤晃解説の内容は、共産党の武装闘争方針の実態と、その実践レベルを分析した貴重な論考になっています。本書全体の〔目次〕は、明石書店リンクにあります。購読注文は、そこからできます。このHPに転載することについては、解説転載を含め、脇田氏の了解をいただいてあります。

 

 〔目次〕

     まえがき

   1、朝鮮戦争と日本共産党 第一部吹田・枚方事件、二章吹田事件より

   5、吹田争乱

     脇田憲一略歴

 

     明石書店『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』内容構成で全目次紹介、購読注文

     伊藤晃解説―抵抗権と武装権の今日的意味 (別ファイル)

 

 (関連ファイル)        健一MENUに戻る

    脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」

 

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』

    『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動

    吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y

    長谷川浩・由井誓『内側からみた日共’50年代武装闘争』対談

    由井誓  『「五一年綱領」と極左冒険主義のひとこま』山村工作隊活動他

    増山太助『戦後期左翼人士群像』日本共産党の軍事闘争

    れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』

 

 まえがき

 

 本書『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』の副題を―戦後史の空白を埋める―としましたが、わたしの本心はそんな大げさなものではなくて、隣国の朝鮮半島で起きた朝鮮戦争時代に、日本における反戦闘争に参加した青年のささやかな精神史を書いてみたかったのです。

 

 わたしがやむにやまれぬ気持ちで小説を書いたのは二二歳のときでした。一七歳で枚方事件に関与して逮捕され、高校を中退して日本共産党の奥吉野山村工作隊に入りました。六全協(第六回全国協議会)で解任されて苦悶の日々を送っていました。わたしにとって文学との出会いは何よりの救いだったのですが、思うように文章が書けず、ついに小説を断念して労働運動と政治運動に没頭しました。

 

 正直に言えば、わたしの少年時代の苦悩を思い出すのが辛くて、書くことから逃げていたのかも知れません。けれども机の前の本棚に一枚のメモをピンで止めていました。それには万年筆で「芸術とは精神的な体験を伝えること……」と書いていました。これは大阪の梅田界隈の古本屋で立ち読みしていて、何気なく目に止まった言葉でした。本の題名や著者の名前は忘れたのにこの言葉だけは記憶に残っていました。このメモに目をやるとわたしの気持ちはいつも安らぐのでした。

 

 これならいつでも書ける、いつかは必ず書くぞと思いつづけて、やっと書く気になったのは二〇年後のことでした。その時わたしは四二歳でした。個人誌『文学ノート』を発行して、こつこつと書きはじめました。思い出したり、調べたり、人に会ったり、現地を歩いたり、書くことは不思議にわたしの少年期に体験した枚方事件と奥吉野山村工作隊のことばかりでした。

 

 いつしか「芸術」という言葉を「革命」という言葉に置き換えて考えていました。「革命とは精神的な体験を伝えること……」「革命」という言葉が鮮やかにわたしのなかで蘇りました。それは革命の負の体験を伝えることでした。そしてわたしたちは二〇世紀末にソ連・東欧の社会主義革命の崩壊を見ることになりました。これは生涯をかけて二〇世紀の社会主義革命をめざした社会主義者、共産主義者にとって共通の敗北体験だったのです。もっとも、すばやく社会主義、共産主義の看板を下ろして、知らぬ顔を決め込んだ人たちも少なからずいますが。「革命」という言葉は色あせ、商品広告の宣伝文句には使われても、政治や労働運動の世界ではいつしか死語になりました。改革とか変革とかの言い換えは資本や体制側との共通語になっています。

 

 しかし歴史はつづいているのであって、勝負に決着がついたわけではありません。最近わたしは「成功した革命はない」という言葉を知りました。これは、ハンナ・アーレントという人の言葉だそうですが、紹介したのは雑誌『世界』に一六年間連載された「韓国からの通信」の筆者T・K生、韓国民主革命の星といわれた池明観先生です。彼がこの言葉を理解したのは八〇歳になってから、韓国の民主革命以降に起きた反革命の現実からでした。そして彼はこう言っています。

 

 「八七年における民主革命以降、革命というものはだんだん小さくなってきました。こうした果てに、政治に関係する人たちは、革命的理念なしに単なる権力争いをする。(中略)革命的であると自ら唱えていた人たちが、反革命へと転落していく。こういう傾向です。そしてそこに現れるのが民衆の背反です。権力とともに民衆が変わっていく。革命的民衆ではなくなる。民衆がものすごく自己利益追求の民衆に変わっていくという状態が現れてくるのです。政権が自己利益に集中すればするほど、民衆はその方向に自分たちも先になって変わろうとするという現象です」と(二〇〇三年一〇月二二日、日本教育会館での講演)。

 

 わたしが日本の「敗北した革命」を意識したのは、日本共産党の「六全協」決議でした。そのときに受けた衝撃は池明観先生の認識にはとても及びませんが、戦後の日本民主革命はこれで幕が下りたと思いました。在日朝鮮人の革命運動も民戦の解散、朝総連の結成をもって終焉したと思っています。ですから朝鮮戦争以後の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は、社会主義革命の国とは思っておりません。

 

 そのときに書いたわたしの小説(『文学ノート』創刊号、一九五七年一〇月「木枯らし」五〇枚)は、稚拙ながらそれら「敗北した革命」の体験を伝える叫び声だったのかもしれません。それから約半世紀、わたしが現在六九歳にして到達した革命観は、革命とは民衆のものであって、資本主義であれ、社会主義であれ、共産主義であっても、権力による支配がつづく限り革命は永遠にくり返される。とすれば革命とは人間の一生で完結するものではなく、次の世代に伝えていくものである、という考え方です。これならば勝った負けたで一喜一憂する必要はないのです。

 

 二〇年後に書き始めた『文学ノート』の記録「枚方事件覚書」「奥吉野山村工作隊」は、それから三〇年後の本書の第一章「枚方事件」と第三章「奥吉野巡歴」につながり、新たに第二章「吹田事件」と第四章「有田川遡上」を書き加えて、ようやく五〇年目にして本書ができたという次第です。これも完成したのではなく、ようやくここまで到達したにすぎません。後のことは次世代の人たちに委ねるしかありません。

 

 この間わたしは難病の拡張型心筋症(心臓病)を病み、医師から余命二年の宣告を受けながら、奇跡的に命は救われて、また無謀にも地方議員選挙に出て二期目に二票差で落選する悲哀を味わいました。皮肉にも落選によって四年間という時間が与えられ本書を書き上げることができました。天の恵みとはこういうことをいうのでしょうか。幸いにして選挙の結末はわたしが空けた議席の穴は若い後継者松川泰樹君(三八歳)の当選で埋めてくれました。本書の刊行はわたしにとって二重の喜びであります。ご支援いただいた多くの方々に重ねてお礼を申し上げます。

 

 最後に、アメリカを盟主とするグローバリズムは、二〇〇一年九・一一事件以来全面テロ戦争の名の下にアフガン戦争、イラク戦争に突入しました。つづいて北朝鮮を標的とした第二次朝鮮戦争が画策されているかに思えます。朝鮮半島の南北和解と平和的統一は、韓国・朝鮮民族の悲願であり、東アジアの民衆共通の願いです。その意味で本書が日本人と朝鮮人が日本において民族の独立を願い、戦争反対の思いで共闘し、敗れたけれども実力で闘った熱い体験を、読者の胸に伝えることができれば、これ以上の喜びはありません。

二〇〇四年二月 著者

 

 

 1、朝鮮戦争と日本共産党 第一部吹田・枚方事件、二章吹田事件より

 

 

 

 本章「吹田事件」は、朝鮮戦争二周年目の一九五二年六月二五日早朝、日本共産党の指令で結集した日朝青年労働者、学生による一千数百名のデモ隊が、竹槍、棍棒、火炎瓶を持って朝鮮向け軍事輸送の拠点国鉄吹田操車場に乱入した事件を、資料と証言で検証するものである。吹田事件は当時の日本共産党の軍事闘争の下で起きた三大騒擾事件(他に皇居前広場メーデー事件、名古屋大須事件)の一つといわれるが、世間で騒がれたのは表面的な火炎瓶事件のことで、事件=火炎瓶闘争というイメージが一般化して、朝鮮戦争下の反戦闘争の真実を著しく歪めている。これを掘り起こし再検証するのが本章のねらいである。枚方事件の場合は、わたし自身が事件の当事者であるから、自分史的に真相に迫る方法をとったが、吹田事件はわたしが当事者ではないから、聞きとりと資料中心の検証になることをお断りしておきたい。

 

 朝鮮戦争は一九五〇年六月二五日、「民族解放と祖国統一」を目指した北側の武力侵攻によりはじまった。これは第二次世界大戦終結の日本のポツダム宣言受諾により、トルーマンとスターリンの駆けひきによる日本の朝鮮半島における武装解除の分担ライン設定がエスカレートした米ソ対立(冷戦)の熱い戦争化であった。それは、米ソによる事実上の「南北分断占領」状態へとすすみ、日本の武装解除は、ポツダム宣言に基づく一つの国家の樹立をすすめるというよりも、それぞれの陣営にぞくする国家を樹立させた。この二つの国家はそれぞれ正当性を争い、究極的には北側が南側に侵攻するという戦争(内戦)をひきおこしたのである。とりわけソ連を中心とする東側の陣営では、一九四九年一○月の中華人民共和国成立と、アジアにおける武力民族解放闘争の盛りあがりが熱い戦争を引きおこす要因となったといえる。

 

 朝鮮戦争は、朝鮮民族の内戦に国連軍(事実上米軍)が介入し、中国人民義勇軍が参戦したことにより米中戦争へと発展した。日本では一九五〇年一月六日、共産党労働者党情報局機関紙「恒久平和と人民民主主義のために」一九五〇年第一号に「日本の情勢について」という論評の発表により東側の圧力が顕在化した。「コミンフォルム批判」といわれる「野坂理論」批判である。日本共産党は衝撃を受けた。「野坂理論」とは、要約すると第一点は「戦後の日本は占領下にあっても社会主義への平和的移行が可能である」こと。第二点は「占領軍は日本共産党の諸目的をさまたげず、日本の民主化を促進する」こと。第三点は「占領軍は人民民主主義政府が実現すると日本から撤退する」というものであった。この論評は「野坂の見解は、日本人民をこん乱におちいらしめ、外国帝国主義者が日本を外国帝国主義の植民地的付加物に、東洋における新戦争の根源地にかえんとするのを助けるものである」とし、「マルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもないものであることは明らかである」と指弾していた。

 

 この論評の筆者はスターリン自身であったといわれる。「コミンフォルム批判」は日本共産党に混乱と分裂をもたらした。同時に「平和革命路線」から「武力革命路線」転換への国際的圧力を示した。徳田・野坂ら党中央主流派は最初は「党かく乱のデマ」と一蹴したが、事実とわかると「所感」を発表して反論を試みた。反論の第一は、野坂論文は不十分さはあるが同志野坂もわが党も実践においてその不十分さを克服している。第二は、国際的友党として十分な考慮を払った批判ではなく、遺憾である。第三は、「野坂理論」がマルクス・レーニン主義と縁もゆかりもなく、日本とアメリカ帝国主義を美化し礼賛しているという結論は受け入れ難い、というものであった。

 

 これに対して最高幹部の一人志賀義雄が、徳田・野坂ら主流派の「所感」に反対する「意見書」を発表し、「コミンフォルム批判」は日本共産党の戦後四年半の政治的組織的方針と活動を批判したものであり、自分も政治局の一員として重大な責任を負うべきとして自己批判した。これは「志賀意見書」として党内の主流派批判に火を付け、いわゆる「所感派」(以後「主流派」と称す)と「国際派」の党内抗争、分裂の発端となった。

 

 追い打ちをかけて、同年一月一七日に北京人民日報は「日本人民解放の道」と選する社説を発表した。明確に「コミンフォルム批判」を支持し徳田・野坂らの「所感」を批判した。一挙に党中央の議論(一月一八日に開かれた第一八回拡大中央委員会)の大勢は「コミンフォルム批判」支持に傾き「所感」と「志賀意見書」の撤回、野坂の「自己批判書」提出で党内の混乱は収拾されるかにみえた。

 

 ところが、党内ではすでに「主流派」から排斥されていた中西(功)派や、「アカハタ」勤務員の一部、宮本顕治をとりまく各方面の派閥的活動が強まり、火に油を注いだのが「志賀意見書」の党内への配布と「コミンフォルム批判」「人民日報社説」を支持した宮本論文の発表であった。党内は「主流派」と「国際派」に入り乱れた論争と対立に発展した。徳田書記長は、これらの事態を収拾するために「徳田テーゼ」(草案)を第一九回中央委員会総会(四月三〇日)に提案し、同時に党内に公開した。

 

 この徳田テーゼは、日本の革命を次のように規定していた。「革命は人民民主革命であり、その本質はプロレタリア独裁、社会主義革命である。しかし、日本のばあいは、民族解放に広汎な人民を新しい組織に結集する任務をもつから、直ちに社会主義に飛躍することはできない。つまり、若干の特異性をもつ社会主義革命である」と。「十九中総」は「徳田テーゼ」(草案)をめぐる賛否両論の大論争になったが、ベースは「コミンフォルム批判」「人民日報社説」の国際批判に寄りかかった各自の意見の相違を述べるだけで、明確な綱領的合意を生む議論にはならなかった。形式的には党の民主的中央集権を確立し、党の統一を確保する決議を採択したが、理論思想的な混乱と動揺は隠しえなかった。

 

 武装闘争の路線転換にはほど遠い議論であった。スターリンの極東アジア支配戦略は実行の段階にはいり、北朝鮮金日成軍が朝鮮半島三八度線突破の直前であったことを考えれば、日本共産党は何と暢気な議論をしていたものである。なお、「十九中総」会議の途中、連合国軍司令部の日本共産党非合法化の秘密情報を伊藤律が入手、会議を中断し対策協議に入った。情勢は緊迫していた。一九五〇年六月六日、連合国軍司令部(GHQ)は日本共産党中央委員二四名の公職追放を指令、翌六月七日「アカハタ」編集局員など一七名を追放した。「アカハタ」は六月二六日一カ月の停刊指令。徳田ら「主流派」幹部は六月七日、アメリカ占領軍の弾圧を機会に地下活動に移行、志賀・宮本ら反主流幹部七人の中央委員を排除し、椎名悦郎を議長とする臨時中央指導部を指名し、中央委員会を解体した。日本共産党は「主流派」と「国際派」の全国的な党内抗争に突入していった。

 

 

 

 朝鮮戦争の計画は一九四九年末に金日成がモスクワを訪問してスターリンに提起し、スターリンと中国側の同意を得て実行に移したといわれる(『フルシチョフ回想録』)。六月二七日、国連安保理(ソ連欠席)は米軍を中心とする国連軍の朝鮮派遣を決定、アメリカは国連軍最高指揮官にマッカーサー元帥を任命した。南進した北朝鮮軍は二八日にソウルを占領、李承晩韓国軍の反撃を撃ち破って一挙に南下した。七月七日、マッカーサーは日本政府に警察予備隊の創設を指令、旧日本軍部、財界など各界一万人余に及ぶ戦犯追放を解除した。同時に全産業にわたる「左翼分子」一万二、〇〇〇人をこえるレッド・パージを指令した。ポツダム宣言、日本憲法を無視して日本を兵坦基地とし、朝鮮戦争介入の臨戦態勢をつくった。

 

 日本共産党の党内抗争は激しさを増し、「主流派」臨時中央指導部による「国際派」の全国的な除名キャンペーンを行い、「国際派」はこれに対抗して全国統一委員会を結成して巻き返しに転じ、党は分裂した。八月から九月にかけて徳田・野坂ら「主流派」幹部は北京に亡命し、中・ソ共産党の援助で国外から臨中(臨時中央指導部)および地下の党組織を指導する「北京機関」をつくった。

 

 中国共産党は九月三日、「人民日報社説」で「日本共産党統一についての勧告」を発表し、臨中側に対しては性急な組織処分を批判し、全国統一委側に対しては臨中への復帰を勧告した。臨中は国際的に立場が認められたとし、全国統一委は深刻な内部危機に陥った。なかでも志賀は単独復帰工作を行い、全国統一委は一〇月二二日解散声明を発表して自ら解体した。いずれの側も国際的権威に弱い主体性の欠如を露呈した。

 

 これらの党内抗争は、「主流派」党機関が「国際派」党員の復帰を認めなかったり、または厳しく自己批判を強要するなどガードを高くして、実際的には「主流派」独占体制になった。「国際派」は袴田里見を代表として中国、ソ連に派遣し、「国際派」の立場を説明して支持を取り付けようとした。袴田はソ連の会議でスターリンに一喝されて簡単に武力革命路線を認め、自己批判書まで書かされたそれが日本国内に伝わると「国際派」は総崩れとなり大半の党員は復帰せずに党を離れた。

 

 わたしは、入党した時期が一九五三年であるから、いわゆる「五〇年分裂」の党内抗争は経験していない。統一が回復された「六全協」後に両派の党員から話を聞いたり、多くの文献も読んだが、それは革命理論や路線上の論争ではなくて、党の運営をめぐる対立や、派閥主導権争いである。それが党の実態だったとすれば、この「五〇年問題」抗争は、党内の分派闘争にほとんどエネルギーを使い果たし、党が直面した大規模のレッド・パージや「逆コース」に有効な闘いを組織できなかったのは当然である。

 

 朝鮮の戦局は、九月一五日「国連軍」(米軍)が仁川に上陸し、釜山地区からの米第八軍の攻撃で挟撃された朝鮮人民軍は血路を開いて総退却した。米軍は二八日にソウルを占領、つづいて南朝鮮各地を占領した。一〇月三日には「韓国」軍が三八度線を突破して北進、九日には米軍が大挙して三八度線を越えて北進し、一九日にはピョンヤンを占領した。朝鮮人民軍は孤立して北にむけて敗走した。さらに、米軍は元山に上陸、一挙に朝鮮人民軍を中国国境の鴨緑江付近に追いつめた。

 

 これに対して中国は一〇月二五日、人民志願軍を組織して参戦し、破竹の勢いで南下し、一二月五日にはピョンヤンを解放し、各戦線で猛反撃をくわえて国連軍(米軍)を三八鹿線以南まで押し返した。もはや朝鮮戦争は内戦から米・中の代理戦争に発展し東西冷戦の幕開けとなった。

 

 一九五〇年の日本情勢は朝鮮戦争とレッド・パージで一変した。占領軍の「民主化政策」によって与えられた戦後日本社会の「平和と民主主義」の諸権利は一挙に奪い取られ、民主化躍進の尖兵であった日本共産党は事実上非合法に追いやられた。それらの弾圧は占領軍命令という名による日本国憲法と国内法を無視した超法規的弾圧であった。いわゆる「逆コース」の到来であった。

 

 わたしは、この大規模の戦犯追放解除とレッド・パージは、戦後の日本社会の方向を決定づけた最大の事件であったと考える。アメリカの第二次世界大戦後の世界戦略である「新植民地主義」支配の確立であった。マッカーサーのレッド・パージの目的は何か。日本共産党は一九四九年一月の総選挙での三五議席獲得、全労連のゼネストを背景に九月革命説が流れた。加えて一〇月一日アジアの隣国で中国革命が勝利し中華人民共和国が実現した。加えて、五〇年一月の「コミンフォルム批判」は、アジア各国共産党の武力攻勢の口火となった。占領軍司令部が日本の「レッド・パージ計画」を作成した背景には、彼らが入手した「コミンフォルム指令一七二号および同行動計画」に見られる共産党の武力革命攻勢への恐怖があったと考えられる。

 

 この文書は一九七〇年代の後半に、アメリカの外交文書公開の「二五年原則」によってGHQ労働課の秘密文書として公開されたものである。「占領研究」で知られる竹前栄治氏の『戦後労働改革GHQ労働政策史』(東京大学出版会、一九八二年)で紹介されたものである。

 その指令とは次の内容であった。

 (1)、発電所、送電線、送電施設などを破壊する。

 (2)、共産党の活動を妨害する重要人物の行動を監視し、反動的人物を暗殺する。

 (3)、民同派組合への浸透をはかり。反動的幹部を排撃する。

 (4)、吉田−李承晩協定により共産主義的・進歩的朝鮮人を本国送還させようとする意図を粉砕する。

 (5)、党員は闘争の先頭から退き(筆者註・地下に潜ることか?)、大衆と密着し、内部指導を強化する。

 (6)、GHQ・吉田反動内閣の公然たる弾圧政策に対処するための行動計画を早急に準備する。

 

 同指令の行動計画は次の通り。

 1、八月一五日から九月一五日までのあいだに全国一斉に蜂起する。

 2、今や日本共産党と中国共産党との連帯・支援関係の樹立に成功した。日共党員を含め約五〇万人が行動に決起できる予定であり、すでに中国共産党オルグや、朝鮮人オルグが秘密裡に日本上陸を完了している。

 3、一二、三万丁のピストルで武装する。海上保安庁の役人を買収することによって、より多くの武器を容易かつ確実に入手することができる。

 4、海岸線に近い都市でまず行動を開始する。

 5、失業した自由労務者により、発電所および鉄道(輸送機関)を破壊する。

 6、職安闘争を強化する。渋谷職安での例では、二人の指導者が一〇〇人の失業者を行動に立ち上がらせるのに成功している。

 7、朝鮮への軍事物資の輸送を妨害する。

 

 竹前氏は、「GHQが入手したこのようなコミンフォルム関係文書の内容が果たして真実であるかどうかは疑問である。しかし、このような情報が単にレッド・パージをするためにでっちあげられたものであるとも断言はできない。当時のGHQ関係者からの話を総合してみると、少なくともレッド・パージ作成計画の真には、彼等がこのような“コミンフォルム情報”なるものに基づく対共産党イメージをもっていたことは疑う余地はない」と述べている。

 

 わたしがこの指令を読んだ感想を言えば、一九五〇年当時、この指令を受け入れる日本共産党の体制が整っていたとは思えない。在日朝鮮人組織においても同じことが言えるのではないか。軍事方針採択後の五二年後半ならその体制はある程度できていたし、党の指令内容もこれとよく似ていた。むしろ、吹田・枚方事件などの場合は、もっと計画的で具体的な戦術が指示されている。五三年以降はこのような指令は本気で受け取る者はいなかったし、党の軍事闘争も事実上停止していた。文書の真実性を言えば、この指令の真偽を証明できる者は日本にはいないのではないか。内容がズサンで謀略文書臭い。米軍の手に渡ることを想定し、米軍を日本に釘付けにするための虚偽指令だった疑いが濃い。

 

 

 

 東側から日本共産党に軍事方針がどのように持ち込まれ、どのように受け入れられていったか。一九五〇年一〇月七日付の日本共産党の非合法機関紙「平和と独立のために」に、はじめて軍事闘争の無署名論文「共産主義者と愛国者の新しい任務―力には力をもってたたかえ」が発表された(『内外評論』には一〇月一二日付特別号に掲載)。この論文の筆者は野坂参三であった(『日本共産党の七十年−党史年表』一三四頁)。

 

 この時、野坂は「北京機関」にいた。北京(中国共産党)の意向は文化部員の宮島義雄(映画カメラマン)が先に中国に渡航して次の三つの指示を持ち帰っている。一、徳田をすぐに渡航させよ。二、非合法組織体制をつくれ。三、軍事方針、武装闘争を準備せよ、である(亀山幸三『日本共産党の二重帳簿』一三五頁)。野坂が書いた軍事論文はこの指示を作文化したものである。要約すると、一、敵権力は公然たる暴力独裁、ファシズム化している。二、人民を防衛するためには、人民自身の力が必要である。別言すれば武装した人民の闘争が必要である。三、わが国の特徴は第一に、革命主力をなす近代的労働者が一、〇〇〇万人以上いる。第二に、米帝国主義に植民地化されている。日本列島には北海道から九州まで山岳地帯が貫いている。農山村人口が四割存在する。四、思想闘争では社会民主主義との闘いが最も重要である。五、人民は武装解除されている。だが、中国、フィリピン、ベトナムでは、解放軍は敵から武器を奪って戦っている、というものである。

 

 一九四九年一一月、北京で世界労連が開催したアジア・太平洋州労働組合会議で、国家副主席の劉少奇が中国全国総工会名誉会長の肩書きで中国の「人民解放軍」路線を日本を含むアジア・太平洋全域に拡大する演説を行った。いわゆる「劉少奇テーゼ」「毛沢東の道」であった。すなわち「中国人民が勝利を獲得するために国内において実行してきた基本的な道であるこの道は、また、同じような事情にある他の植民地・半植民地国の人民の解放のための基本的な道となるものである」という武装闘争路線であった。中国革命勝利後、モスクワで開かれた毛沢東・スターリンの首脳会談で合意されたアジア戦略であった。スターリンは中国革命を評価し、毛沢東を信任し、中国革命方式によるアジアの植民地・半植民地国の武力解放を中国共産党の指導に委ねたのである。この植民地・半植民地の中には、インドシナ、マレーシア、インドネシアなどと並んで日本も入っていた(袴田里見『私の戦後史』朝日新聞社、一九七八年、八八頁)。

 

 一九五〇年一○月二二日、全国統一委員会は解散声明を出して、日本共産党の指導体制は《北京機関》の国外指導部、国内の臨時中央指導部(臨中)・地下指導部ラインに一本化された。幹部配置は、《北京機関》徳田球一、野坂参三、西沢隆二、椎名悦郎、《地下指導部》伊藤律、志田重男である。「国際派」七人の中央委員をすべて排除した、主流派独占の指導体制であった。党内抗争の力関係の結果というよりも、スターリンから委託された中国共産党の強力な指導がこの背景にあった。宮島義雄が党の密命をおびて持ち帰った三つの指示はそれを物語っている。

 

 『日本共産党の七十年』は、これらの動きを「第十九中総」の統一への声明を無視した「明白な分派の結成」であり「明白な解党主義」であるとし、「五〇年問題の誤りの本質」と強く批判している。しかし、この批判はあくまでも党内抗争の視点であり、アメリカ帝国主義の朝鮮戦争介入に対する、アジア地域共産党の緊急な武装闘争の展開という東側の戦略を見落としている。この戦略は結果的に失敗したわけだが、この時期はまだスターリンの威光は国際共産主義運動のなかに生きており、戦前のコミンテルンの権威、すなわちプロレタリア国際主義は絶対的なものであった。「スターリンと毛沢東の不当な干渉」という観念は、当時の共産主義者にはなかった。

 

 この議論のズレは、一九五一年二月の第四回全国協議会(四全協)の反対派の全組織からの一掃、「軍事方針」の決定でより明白となった。革命情勢下の武装闘争は組織の統一と統制を必要とした。マッカーサー連合国軍司令部の弾圧、日本共産党の非合法化という現実に直面して、最高幹部の国外亡命、国内指導部の地下潜行は避けられない選択であったといえる。「国際派」は全国統一会議を再組織して軍事方針批判と大衆闘争による党統一という路線で反撃したが、すでに「主流派」に対抗するエネルギーはなかった。宮本顕治を中心に「四全協は党規律違反、第六回大会の中央委員会回復」とする分派闘争は若干残ったが、八月一四日、コミンフォルムは四全協支持声明を発表し、宮本らを「分派」「スパイ」と激しく非難した。党内闘争の勝負は決着した。

 

 今の日本共産党はこれを「重大な覇権主義的干渉だった」とし、次のように非難している。「『占領下平和革命』論の批判に限定し、正しい綱領的展望をもとめていた当時の党内事情に適合した積極的側面をもっていた五〇年一月の第一回の論評と五一年八月の二回目の論評には、重要なちがいがある。この二つの論評を同一視することは、五〇年問題の本質を見誤ることになる」(『日本共産党の七十年』上巻、二一一頁)。

 

 しかし、コミンフォルム論評は第一回も第二回も、日本共産党に武装闘争への路線転換を要求していたことには変わりはなく、第一回目の論評を「宮本論文」が支持したことに矛盾がある。第一回の論評と第二回の論評に「重要なちがいがある」という見方こそ、五〇年問題の本質を見誤っている。一九五一年八月一九日から三日間、「主流派」は第二〇回中央委員会を開き、「党の統一にかんする決議」などを採択すると同時に、突如として「日本共産党の当面の要求−新しい綱領(草案)」(「五一年綱領」)を提出した。地下指導部は同年一〇月一六日二七日の二日間、第五回全国協議会(五全協)を開催してこの「新綱領」を決定した。

 

 「五一年新綱領」の作成経路は、「五全協」前の五一年八月、モスクワのスターリンの別荘で日本共産党首脳(徳田球一、野坂参三、西沢隆二、袴田里見)とソ連共産党首脳(スターリン、マレンコフ、ベリア、モロトフ)の会談が開かれている。中国共産党を代表して国際部副部長の王稼祥も出席している。袴田の場合は国際派の代表として中国、ソ連に派遣されていたが、王稼祥に説得されて、「五一年綱領」原案を認めてこの会談に出席している。加えて、スターリンから自己批判書まで書かされた。原案は五一年四月《北京機関》の徳田、野坂、西沢らがモスクワに呼ばれ、スターリンの直接の指示と監督のもとに作成された。最後はスターリンが直接手をいれた。付帯文書の「軍事方針」も、スターリンが、朝鮮戦争の勝利を展望してつくられた(不破哲三『日本共産党にたいする干渉と内通の記録―ソ連共産党秘密文書から(下)』新日本出版社、一九九三年、九九頁)。会談後徳田・野坂らは北京に戻ったが袴田はソ連に残り、病気(肺結核)療養のため黒海に面するソ連有数の保養地クリミヤの党幹部用のサナトリウムに移り、五四年の九月まで三年間ソ連で療養生活を送った。彼は五四年九月、ソ連の軍用機で中国北京に移動し、《北京機関》で徳田死後(一九五三年一〇月北京で客死)の主流派幹部と合流、その責任者になった。五七年二月、六年半ぶりに日本に帰国した。

 

 スターリンは、なぜこれほどまでに日本共産党の「新綱領」と「軍事方針」に熱心であったのか。朝鮮戦争後のアジアの日本の位置、すなわち、朝鮮の民族解放と南北統一をテコに、一挙に日本の革命まで展望していたと考えられる。毛沢東もそれに乗った。朝鮮戦争の内戦は勝利する。アメリカは内戦には介入しない。朝鮮が解放されたら、次は日本がアジアの決戦ラインだ。日本革命は射程に入ったと見たのだろう。しかし、この読みは外れた。アメリカは朝鮮戦争に介入した。戦争は内戦から米・中の全面戦争に拡大した。一九五一年に入って、戦局は三八度線を挟んで一進一退の攻防がくり返された。三月から四月、国連軍ふたたび三八度線突破北上。四月二日、マッカーサーの中国北爆方針が認められず、解任。四月二三日、中国・北朝鮮軍ふたたび三八度線突破南下。五月二四日、国連軍みたび三八度線突破北上。そして七月一〇日、開城で朝鮮休戦会談が開始される。結局、朝鮮戦争の三年間は、両者がいかに物量をつぎ込んでも勝負の決着はつかなかった。戦争という人間の殺戮と国土の荒廃という愚かさの代償は、ふたたび三八度線の休戦ラインに南北祖国統一の朝鮮民族の悲願を凍結した。民族民主革命の日本革命も幻と消えた。スターリンは一九五三年三月五日、死去した。朝鮮戦争は同年七月二七日、休戦協定署名をもって終結した。徳田球一は同年一〇月一四日、北京で客死した。

 

 

 

 朝鮮戦争下の日本共産党の軍事闘争には、在日朝鮮人党員が大きな位置を占めていたことを見落としてはいけない。戦前のコミンテルン日本支部時代から共産党の組織原則は一国一共産党であり、戦後もその組織原則は生きており、在日朝鮮人の共産主義者は日本共産党に入党していた。一九四五年一〇月一〇日徳田・志賀らとともに府中刑務所を出獄した朝鮮人共産主義者金天海は、一九四五年一二月に開かれた日本共産党再建第四回大会(三回までは戦前)に中央委員に選ばれた。第五回大会からは政治局員として最高幹部の一人となり、日本共産党が公然と在日朝鮮人を党内に吸収し、その指導を行っていく象徴的な存在であった。一九四七年の党勢拡大運動では、全国各地をまわって在日朝鮮人の活動家を大量に入党させた。かれらは戦後一〇年間日本共産党員として活動した。朝鮮戦争下にあっては在日朝鮮人運動の核心部分における祖国防衛の武装闘争があり、それを指導したのは日本共産党であった。かれらの活動は、戦後一〇年のなかで中国をはじめアジア・アフリカ勢力が大きく台頭し、一九五四年、平和五原則が提起されるまでつづいた。

 

 戦後の在日朝鮮人運動は解放された国家の公民権が確立されないままに、占領下の日本共産党の朝鮮人部、少数民族対策部(責任者・金天海)によって指導される矛盾を生んだ。東西冷戦対立の激化により在日朝鮮人が獲得した諸権利は、占領軍(GHQ)の一九四八年の民族教育弾圧事件、一九四九年の朝連(在日本朝鮮人連盟)・民青(在日本朝鮮民主青年同盟)の解散命令、金天海、韓徳銖など日本共産党員の追放などの弾圧により剥奪された。一九四九年○月、日本共産党は民族対策部(民対)を結成して在日朝鮮人運動の再建にのりだしたが、一九五〇年月の「コミンフォルム批判」により分裂状態となり、同年六月の中央委員二四名の公職追放で指導体制を喪失した。民対は独自の指導主体を確立せざるをえなかった。当然のこととして六月二五日に勃発した朝鮮戦争への対応は、日本共産党民対に指導された在日朝鮮人組織の方が迅速であった。

 

 一九五〇年四月、解散をまぬかれた在日朝鮮解放救援会、在日朝鮮民主女性同盟を足場に朝鮮人団体中央協議会を結成、五月から一カ月間「祖国統一戦取月間」を定めて三、〇〇〇万円資金カンパを決定した。六月に在日朝鮮統一民主戦線(民戦)結成準備会をつくり、七月一日に朝鮮戦争の緊急事態に対処する「祖国防衛委員会」と「祖国防衛隊」を結成した。そして、八月二八日に「アメリカ帝国主義者の朝鮮戦争干渉に反対するとともに祖国人民を援助するため、あらゆる手段によって、南朝鮮向けの武器の製造・輸送を阻止する」という方針を決定した。日本共産党臨時中央指導部が『在日朝鮮人運動について』という指令を発したのは、九月三日であった。「武器の生産と輸送を阻止するための在日朝鮮人の闘争は、日本から帝国主義を一掃し、そのカイライ国内反動勢力を打倒する日本人民の闘争と一致する」と、これを追認した。一九五一年一月一〇日に解散した朝連に代わる民戦が結成された(筆者註・朝連解散後一年四カ月日)。この構成人員は五三年九月時点で一三万一、五二四名である。朝連解散時の勢力三六万五、七九二名にくらべると約三分の一に減少している。

 

 この方針によれば、民戦は「在日朝鮮人運動の統一的な戦線体である」と規定し、祖防委、祖防隊は、軍事武装闘争の非公然活動部面を担当するとしている(以上は、高竣石『在日朝鮮人革命運動史』柘植書房、一九八五年、二三五頁、二五五頁。および玉城素『民族的責任の思想−日本民族の朝鮮人体験』お茶の水書房、一九六七年、一一九頁を参照)。

 

 一九五〇年〜一九五一年までの祖防委、民戦の方針と活動を追ってみよう。

 一九五〇年

 ・六月二五日、朝鮮戦争勃発。

 ・六月二八日、日本共産党本部で民族対策部(民対)中央会議を開き、祖国の防衛と組織の防衛強化のため軍事活動の機関として祖国防衛中央委員会を組織し(責任者慮在浩)、委員は民対部員が兼任し、各地方に祖国防衛委員会(祖防委)と祖国防衛隊(祖防隊)をつくり、祖防委が祖防隊を指導することとした。

 

 ・八月二七日、民対全国代表者会議を党本部で開き、朴恩哲の情勢報告、鄭東文議長で次の事項を決定している。

 (1)、青年行動隊、祖国防衛隊などを動員して南朝鮮に送る武器弾薬の製造、輸送を中止させる。また軍需品の輸送を妨害し、日本人労働者に朝鮮内乱の真相を伝えて理解させる行動をとる。

 (2)、朝鮮動乱は純然たる朝鮮の内政問題だからアメリカその他各国の干渉を許さない。

 (3)、在日同胞の生活権の防衛闘争を強化する。

 (4)、在日朝鮮統一民主戦線の組織が予定よりおくれているが、早急に地方組織を推進して、中央組織大会をもつように督励する。

 (5)、「解放新聞」が停刊されているので(八・三)、民対と祖防委の機関紙を早急に発行する。

 

 以上のような方針で、在日朝鮮人は朝鮮戦争が勃発するやただちに祖国防衛闘争に立ち上がった。闘争は、はじめに米日反動のデマ宣伝が乱れとぶさなかで動乱の真相を訴え、その性格を広汎に宣伝しながら、労働者大衆に武器の製造と輸送を拒否させる活動に重点がおかれた。工作活動は全国各地の青年行動隊によって主要都市と職場で行われた。なかでも神奈川県鶴見青年行動隊の闘争はとくに勇敢であった。愛国の熱情にもゆる青年たちは、弾薬の輸送に狩りだされた労働者らたちが運転するトラックの下に体を投げだし、数時間にわたって抗議をつづけた。そしてついに弾薬の輸送に狩りたてようとする人夫募集を阻止した。この勇敢な闘争は日本の労働者を強く刺激し、京浜地区の自由労働者の各職安でのサボ、抵抗運動に拡大していった。闘争に立ち上がったのは青年だけではない。主婦や子供、老人までも「朝鮮に原爆を落とさせるな!」と、ストックホルム・アピールの平和署名運動を展開した。

 

 ・九月三日、日本共産党臨時指導部は「在日朝鮮人運動について」の指令(四一五号)をだした。

 (1)、朝鮮問題は、日本革命の当面する闘争の主要な環……朝鮮戦争を第三次大戦の口火にしようとする国際帝国主義の企画を粉砕し、朝鮮侵略に便乗して日本帝国主義を夢みている吉田を首班とする国内反動勢力を打倒し、日本人民大衆を平和擁護の旗の下に結集することは、当面する日本革命の最も重要なる環である。

 (2)、在日朝鮮人運動は、「外国の朝鮮内戦干渉反対」「朝鮮から手を引け」のスローガンのもとに日本から送られる武器の生産と輸送反対闘争へ結集している。

 (3)、党の指導を強化せよ。

 在日朝鮮人の武器生産、輸送反対闘争は、日本から帝国主義勢力を一掃し、かいらい反動どもの打倒粉砕闘争と一致するので、朝鮮青年行動隊の勇敢な行動性を、党が指導せよ。そのために、

 イ、日常闘争を政治闘争と結合させ、青年後続部隊を養成する。

 ロ、日・朝青年行動隊の連携を指導し、共同訓練をおこなう。

 ハ、日朝親善協会の係を各級機関におく。

 ニ、朝鮮人党員の規律強化と分派について、党臨時中央指導部のもとに、分派活動を粉砕し、党強化のため全力をつくすべきことを全朝鮮人党員に徹底させる。

 

 一九五一年

 ・一月九日、東京都江戸川区小岩の個人の家で代表者八〇人によって、非合法に民戦結成大会が開催された。そこでは、民戦結成準備委員会長金薫の情勢報告がなされ、大会宣言、綱領、規約、活動方針が決定された。情勢報告では、朝鮮戦争を「祖国解放戦争」であると規定し、「祖国解放戦争は新しい段階に入り、完全解放の日はもう遠くはない。米帝の敗退は最早時間の問題である。……諸君は勇気をもって日本人民を奮い立たせ、その先鋒に立って祖国解放戦争に続かねばならない」とした。

 

 基本方針は次のとおり。

 第一に祖国の解放戦線に参加する。また祖国の完全な統一と独立をはかるために、一切の外国軍隊を即時朝鮮から撤退させ、かつ祖国侵略のための日本の再軍備に絶対反対する。

 第二に米国と日本政府による基本的人権の侵害と、民族的差別、弾圧と生活権の剥奪の民族的課題に対して闘う対権力闘争を組織する。

 第三に米占反動から朝鮮人民に対して加えられる弾圧は日本自身の問題であり、すなわち日本の独立と平和を破り、日本を戦場にして日本人民を奴隷と悲惨な戦争に駆り立てるものである点を、日本人民に理解させ、共同闘争を組織する。

 

 ・二月一日〜三月一日の「祖国防衛・日本再軍備反対闘争月間」では三〇余万の全面講和投票と一七万余の強制送還反対署名を集め、日本人民の全面講和投票運動を大きく推進し、全面講和、再軍備反対闘争を政治的に発展させることに寄与した。

 この月間闘争では、府県としては京都府が、地域別では、川崎、松阪、滋賀県八幡、大阪東北、兵庫伊丹、下関、宮崎地区などが、広汎な大衆を基盤として成果をあげた。

 

 ・二月二三日〜二七日、日本共産党は第四回全国協議会(四全協)を開催し、「日本共産党の当面の基本的行動方針」を決定したが、その中に「在日少数民族との連携の強化」の一項目が設けられていた。この「在日少数民族」規定は誤りであった。民戦中央委員会でも議論が展開され、そこでは在日同胞の当面する民族問題の焦点は、祖国防衛にあることを再確認した。

 

 ・五月一〇日、民対全国代表者会議が開かれ、四全協決定を確認し、二月〜三月の「祖国防衛・日本再軍備反対闘争月間」運動の成果と欠陥を検討し、「在日朝鮮人運動の当面の任務」を決定した。

 行動としては、五月二五日〜六月二五日には「六・二五一周年記念闘争月間」を設置し、そこでは五大国平和条約締結の署名運動が展開され、多くの署名を獲得した。とくに在日朝鮮青年たちは、国際青年学生平和祭をめざして平和署名運動を積極的にとりくみ、六月二六日までに全国一五二万名の署名を獲得している。大阪では六月一日全大阪朝鮮体育祭を真田山公園で開催したが、一万五、〇〇〇名の大衆を結集し、盛大な体育祭を挙行して民族的団結を示威した。

 

 ・民戦ではひきつづき八月一〇日〜九月一〇日を「祖国統一戦取月間闘争」を展開し、平和署名一三万名、全国講和署名五八万名、基金カンパ二、七七三万円を集めた。また、一〇月と一一月には民戦中央常任委員会は一〇月三日付で「朝鮮人強制追放陰謀に対して在日全体同胞におくるアピール」をだし、全国各地で人民大会がもたれ、兵庫県下里村、福岡市、神奈川県大和町、大阪市東成あたりでデモをともなう暴力的闘争が展開された。

 

 ・八月一五日、祖防全国委員会では「この歴史的な民族解放記念日にあたって、在日男女を民主統一戦線のもとに結集し、侵略者の排撃運動に参加する祖国防衛の行動を組織する」と宣言し、その祖防隊の規約、宣言、綱領を発表した。

 

 ・一〇月一六日、日本共産党第五回全国協議会(五全協)が開かれ、新綱領「日本共産党の当面の要求」と武装闘争「われわれは、武装の準備と行動を開始しなければならない」を決定した。

 

 ・一〇月二一日、祖防全国委員会は「在日朝鮮人当面の闘争方針」で「敵の企図を粉砕する闘争は、単にわれわれの生命財産を守るだけの闘争ではなく、わが祖国の侵略を失敗させ、祖国と日本とアジアから米帝国主義を追放する祖国防衛闘争と、平和擁護の闘争であり、また、日本民族の解放を支援する闘争である。……この闘争を闘いとるためには、中核自衛隊の性格をもつ祖防隊の編成をすすめなければならない」と指示している。

 

 さらに、翌一一月の祖防委全国会議では「祖防委の性格と責務および当面の方針」がだされ、本格的武装闘争を展開するようになった(以上、朴慶植「在日民戦の活動と運動方針問題」『在日朝鮮人史研究』第七号、一九八〇年一二月号)。

 

 また、「四全協」で日本共産党が「在日朝鮮人は日本の中の少数民族」と規定した誤りにふれておかねばならない。この方針は「四全協」に発表され民戦への指導方針となっていた。それは、「在日朝鮮人は外国人ではない。日本の中の少数民族で、日本革命の同盟軍だ」というものであり、日本革命を成し遂げることなしには、在日朝鮮人の問題は何一つ解決できないという見解である。敗戦前の朝鮮は日本の植民地で日本の権力の支配下にあったが、敗戦後はたとえ南北に分断されても、朝鮮には自分たちの政府ができている。解放後は海外公民として、在日朝鮮人の地位が根本的に変わらなければならなかった。

 

 在日朝鮮人の側も民族問題の認識が不十分であったことを認めている。「われわれが朝鮮人の立場で民族問題を掘り下げる暇がなかったんです。総連の路線転換後(一九五五年以降)、朝鮮人はどのようにしていつから日本に来たのか、そういう初歩的なこともわからない」「そのように基礎的な理論・調査活動がぜんぜんなかったといってもいいくらいです。だから、解放によって、朝鮮人の日本の中での民族的地位がどう変わったかということも、今でこそ言えますが、当時は考えたこともなかったのです」という反省がある(姜在彦「民戦時代の私」『体験で語る解放後の在日朝鮮人運動』神戸学生青年センター出版部、一九八九年、一四三〜一四四頁)。

 

 

 

 今の日本の戦後史では次のような見解が通説化しているようである。(1)、日本共産党の「五一年綱領」と「軍事方針」は外国の党(ソ連、中国共産党)から押しつけられた。(2)、朝鮮戦争下の在日朝鮮人運動(民戦)は日本共産党の極左冒険主義に利用された。(3)、在日朝鮮人党員は日本共産党の犠牲になった。わたしは以下の理由でこの見解に同意できない。

 

 (1)について、一九五〇年八月に設置された日本共産党の地下亡命指導部「北京機関」や、一九五一年四月から五月にスターリンや中国共産党代表が参加した日ソ共産党首脳会談のことを指す。「押しつけられた」のは日本共産党の理論水準、主体的力量のレベルの低さ、スターリン・毛沢東信奉の権威主義の結果であって、日本の人民闘争と革命に主体性をもつべき日本共産党の自己責任である。また、「押しつけられた」日本共産党首脳は正規の党を代表しない「別の分派」(徳田・野坂派)であって、「正規」の日本共産党としては責任を負わないという見解である(現在の日本共産党)。あまりにも党内派閥闘争の視点であって世間には通用しない責任回避論と言わねばならない。実際的には国際共産主義運動のアジア戦略の一体化、アジア各国共産党の統一路線であった。

 

 (2)について、あきらかに運動の実態と相違した見解である。前節で示したとおり「祖防」と「民戦」の闘いは独自の在日朝鮮人運動であって、日本共産党に隷属した運動ではけっしてなかった。指導部が日本共産党の「民対」であったことを指すとしても、これはコミンテルンの一国一党主義の組織原則ではあっても、実際には日本共産党とは別の自立した在日朝鮮人指導部であったとみるのが正確である。アジア共産党の統一路線という面から言えば朝鮮労働党の影響(密航党員の参加も含めて)を強く受けて、むしろ、日本共産党をリードする役割を担っていた。「祖防」の動きは日本共産党の「四全協」「五全協」より先行しており、日本共産党の「軍事方針」は「祖防」の行動を追認したものともいえる。

 

 朴慶植は、前掲の論文で次のように述べている。

 民戦の時期(一九五一〜一九五五年)、在日朝鮮人は祖国防衛の立場から反米反戦闘争を熾烈に闘った。その闘いは高く評価しなければならない。ただ民戦の指導の一部において、日本共産党の極左冒険主義に引きずられて主体的立場を逸脱した側面、問題点があるが、これらについては、客観的、主体的条件を充分把握した上で、具体的事実にもとづきその肯定的、否定的側面を論評すべきで、教条主義的、清算主義的に総括すべきではない。「民戦」の時期の闘いすべて日本共産党(日共)の「四全協」「五全協」の方針に沿った極左冒険主義の誤ったものだとする考え方もあるようだが、これは妥当ではない。

 

 これは「民戦」の総括としては妥当であるが、「祖防」の「軍事闘争」の総括にはふれていない。「四全協」「五全協」の「軍事方針」との関係で、「阻防」の「軍事闘争」は朝鮮労働党の関与を含めて事実関係が明らかにされる必要がある。

 

 (3)について、朝鮮戦争下の日本共産党の軍事闘争を「極左冒険主義」とする見方は、日本共産党「六全協」の評価であるが、個別具体的な闘争総括がないから、何が誤りで何が正当な闘いだったのか明らかでない。在日朝鮮人党員の犠牲とは、「祖防隊」が最も戦闘的でその犠牲も大きかったということであろうが、それは日本共産党の犠牲になったということではなくて、目的は祖国朝鮮の解放と日本の米軍基地、日本の戦争協力への抵抗であったことを考えれば、具体行動の総括は厳密でなければならない。実力闘争(武装闘争を含む)は一般的に極左冒険主義ともいえないし、正当な闘いもあれば、誤った闘いもある。肝心なことは、当事者にとってやむにやまれぬ闘いであったかどうか、納得のいく闘いであったかどうかが問われるべきであろう。

 

 本書は日本共産党の武装闘争のわたしの自己総括であるが、運動の総括は、運動当事者の総括が最も重視されねばならない。名古屋大須事件元被告、酒井博さんの証言を紹介しよう。酒井博さんとは、最近一度会ったきりであるが、五〇年間思い続けてきたことは同じである。

 

 党分裂の契機は、コミンフォルムの野坂批判をめぐる所感派(徳田・野坂)と国際派(宮本・志賀)の対立にあったことは周知の事実である。

 宮本は中・ソ論争以後の自主独立路線を誇っているが、スターリンの下僕だったコミンフォルムの武装革命路線に真っ先に手をあげたのは国際派ではなかったのか。中国共産党の『人民日報』の助言を受け入れて『平和革命路線』を放棄した徳田主流派が地下に潜行し、四全協・五全協を経て冒険主義路線に突入していったことは確かに誤りであった。ただ、地方のほとんどの党機関と一般党員は徳田派によって作られた臨時中央指導部を非公然化の党中央機関と信じ、その指導によって活動していた。

 

 五二年の総選挙など公然・非公然の闘争のすべてはこの指導部の名でおこなわれたことも忘れてはならない。いわゆる国際派は、学生組織と文学者の一部と地方組織では中国地方や関西の一部に若干の支持者はいたがその影響力はほとんどなかった。つまり六全協で両派が無原則的な統一をするまでの党の分裂の責任が主流派だけにあったという見方は一面的である。国際派も分派であり、少数派であったというのが正しい見方だ。

 

 これについては、党の副議長の上田耕一郎が、「戦後革命論争史」の中で「党の統一にあたり自己批判しなかった只一人の幹部が宮本顕治であった」と批判したのは宮本の狡猾さを示す有力な証言である。

 

 五〇年から五二年にかけて、日本の人民が日米帝国主義の戦争政策と弾圧に対して抵抗闘争を行っていた時期にたとえ誤った路線といえ、困難を怖れずに闘っていたそのとき、分裂した両派の指導者たちは一体何をしていたのか、何もしなかったことを唯一のアリバイとして無謬を主張しているに過ぎない。

 

 『一将功成って万卒枯る』という兵士たちの悲劇は将たちの裏切りによって加増されるのだ。第七回と第八回大会を経て、実権を握った宮本派による党史の恣意的な改悪はここから始まった。

 極左冒険主義とは何か。それは党創立以来何度も繰り返されてきた党のテーゼをめぐる混迷と国家権力の苛烈な死闘の谷間で避けられなかった誤りであり、戦前の天皇制、戦後の日米帝国主義との闘いの過程で選択の余地のない決断であった。

 

 右の偏向が議会主義と改良主義で、左の偏向が極左冒険主義であったとしても、その功罪は徹底した事実の検証と誠実な批判と自己批判によってこそ生産的なものとなるのだ。我々がマルクスやレーニンから学ぶのは、人間を裏切らないという思想であり、戦術の失敗や運動の後退から目を背けずに立ち向かう精神である。《ラジカルであるとは事柄を根本において把握することである。だが人間にとっての根本は、人間自身である。》(Kマルクス/ヘーゲル『法哲学批判序説』)

 侵略戦争を推進した者と、聖戦と信じて戦場に倒れた兵士たちを同罪とはいえないのと同じではないか(酒井博「証言・名古屋大須事件」パンフレット)。

 

 

 5、吹田争乱

 

 

 

 六月二五日午前五時三〇分、三島郡山田村字下(現在吹田市山田下)に到着した電車部隊は山越部隊から大喚声をもって迎えられた。両部隊は合体して千数百名の大集団となり、山越部隊を先頭に吹田操車場に向かって南下し、同郡味舌村下市場須佐之男命神社に到着した。そのデモ隊の人員は、デモ隊側の資料では大阪府民対は三六〇〇名、国民救援会は三、〇〇〇名、日本共産党北大阪地区委員会は二、〇〇〇名、労農共同デスクは一、〇〇〇名、警察側の警備記録は八〇〇名から一、〇〇〇名とまちちまちである。これも先述したが、誰も正確に数えた者はいないわけだから実際人員の判定は難しい。夜が明けてみると山越部隊と電車部隊が一挙に合流していたのであり、大部隊が突然出現したと思っても不思議ではない。

 

 「検察資料」は「合流時における全集団は、その人数約八〜九〇〇名に達して、整然と隊列を組み、その殆ど全員が竹槍、棍棒、火炎瓶等を持って武装しており、且つ、北朝鮮旗、赤旗を押し立て、太鼓を叩き、ラッパを吹き鳴らし、歌を高唱し、或いは喚声を挙げたり等して大いに気勢を挙げて意気まことに旺んなものがあった」と記している(「検察資料」第一章、待兼山集会及び吹田騒擾事件の概要、九頁)。

 

 わたしは、阪急服部駅から電車部隊のデモ隊が行進したとされる裏街道のコースを地図を見ながら吹田市山田南まで歩いてみた。現在のこの道筋は名神高速道路が東西に貫き、市街化が進み昔の里山や田園風景の村落の面影はほとんど見られない。小野原から山田上、同下を通ってJR東海道線の元吹田操車場に向かって南下する道路は、元産業道路と呼ばれた府道大阪高槻京都線千里丘七丁目の交差点に突き当たる。東方向に左折すると約一〇〇メートル先に須佐之男命神社の鳥居があって、道路を挟んで南北に松並木の参道が通じて北側二〇〇メートル先に神社境内がある。今の参道は舗装された道路になっているが、閑静な風景は昔のままのようである。東側に千里丘小学校が隣接し、校庭で遊ぶ児童の声が聞こえる。わたしはこの参道を散策しながら、この道を埋め尽くした大集団のデモ隊を思い浮かべた。以下はデモ隊側、検察側双方の記述である。

 

 デモ隊側

 先頭には朝風にはためく赤旗・反戦旗・朝鮮人民共和国旗にまじって、竹槍と棒が整然と並ぶ。五時四〇分吹田操車場を目前に控えた山田村字市場についた。農家の切れ目から国道が見えた。「いるいる」機動車三台に満載された警官が鉄兜とピストルで武装されて戦闘隊形をとっている。我々の血は逆流した。「畜生やったるぞ!」 デモ隊の中から近くの農家の物置にある水田用の棒を武器として取ろうとして一人の青年が飛び込んだ時、デモ隊の多くの人達は「やめろ!農民の生産道具をとるな」ととめた。棒に手をかけた青年は「でも武器がなくて闘えるか」といい返すと、デモ隊の中から「石をにぎれ、そして武器はあいつらから取れ」と警官隊を指さした。警官隊は機動車から降りて、吹田操車場に通ずる道路の前に整列して、棍棒を構えてデモ隊を牽制している。デモ隊は隊列を固めながら警官隊の真正面に押進んだ。

 

 デモ隊の太鼓が打鳴らされた日本民族の独立と平和のために日本人青年は胸をぐっとはった。祖国の破壊と同胞の死をくい止めんとする朝鮮人青年はこぶしをにぎりしめた。自己の行動に誇りと勇気をもつ若人たちは、アメリカ帝国主義者とその手先吉田売国政府のアジア侵略の軍事拠点吹田操車場の軍事輸送を止めるために身を捨てて前進を始めた若人のうめきは歓声に変わった。太鼓はさらにはげしく打鳴らされ、突撃の歓声はさらに高まった。明らかに警官隊に動揺の色が見えた。「ワーッ」デモ隊が突こんだ。石が投げつけられる。棍棒が払われた。火炎ビンが飛んで火を吹いた国警の指揮車があわてて逃げた。警官隊も横にさけた。「いまだッ」デモ隊は歓声をあげてついに七時一五分軍事品と軍用列車をもとめて吹田操車場に決死の突入をした。顔面を青白くひきつらした警官は、ピストルをにぎりしめてデモのあとを追った(前掲「吹田事件現地ルポ・闘いの記録」日本国民救援会大阪本部、在日朝鮮人解放救援会発行)。

 

 検察側

 午前五時四〇分頃、集団は須佐之男命神社付近に差しかかった。折柄同神社前産業道路上には、吹田市警察署警視松本三秋、国警大阪管区本部警視吉井粂治の指揮する警察官一三〇名が、右集団の吹田操車場進入を阻止し、これを解散させる目的をもって警備していた。集団は産業道路上で警備している警察官を発見するや、同所付近で警官隊との衝突を予期して気負い立ち、喚声を挙げ、路上の石塊を拾い又は付近民家、田圃等より竹棒等を持ち来り、或いはこれら武器を持たないものに武器を分配する等更に武装を固めて同神社参道に入ったが、この時三帰省吾、夫徳秀両名は全員に「八列になれ。スクラムを組め」と号令し、これに従って全員は一斉に隊列を八列に組み直し、スクラムを組み、同神社参道中程まで前進し、警官隊と相対峙するに至った。

 

 一方、松本、吉井両警視は、先ず集団を平穏裡に解散させ、事態を円満に収拾しようと考え、集団の代表者と交渉しようとし、数名の警察官と共に集団の前面に進み出て「代表者は誰か」と呼びかけたが、集団の先頭に属する者は口々に「全員が代表だ」と叫んで交渉に応ぜず、更に同警視等が「全員とは交渉は出来ぬ。代表者を出せ。デモを解散せよ」と命じたところ、これに応じないのみでなく、却って「通せば良いんだ、通さんか」「犬共殺してしまえ」「やって仕舞え」等と怒号し、多数の者が両警視に竹槍を擬し「われわれの行動を邪魔するものはこれだぞ」と叫んで脅迫し、全く殺気だった様相を呈し、警官隊がその行動を阻止するにおいては敢えて暴行脅迫を辞せず、実力をもって警備線を突破する気勢を示した。

 

 松本警視等はその気勢に圧倒され、己むなく産業道路上の警備線まで後退し、集団はその背後より竹槍等を擬してジリジリと肉薄前進して、遂に産業道路上まで進出し、全く緊迫した状態に立ち至ったが、集団は勢いに乗じて一挙に警備線を突破しようとし、夫徳秀は自ら集団の先頭に立ち「駆足」と号令し、全員は夫徳秀の右号令の下に一斉に喚声を挙げ、産業道路上に居並びこれを阻止しようとする警察官に、石、火炎瓶、硫酸瓶等を投げつける等の暴行を働きながら駆足で一挙に警備線を突破し、吹田操車場に向かって突進した(「検察資料」第一章、待兼山集会及び吹田騒擾事件の概要、第三節、須佐之男命神社付近の状況)。

 

 

 

 どの資料を見てもデモ隊は石や火炎瓶を投げたことになっている。デモ隊のこの警備線突破は吹田事件騒擾罪、威力業務妨害罪容疑が適用された重要なポイントである。この警備線突破によってデモ隊は「暴徒化」したとされ、騒擾罪、威力業務妨害罪が適用された。「検察資料」は吹田市警の神社前の警備対応を次のように記述している。

 

 吹田市警警備部隊と国警管区学校生徒応援部隊とが、産業道路上においてデモ隊の吹田操車場進入を阻止し、且つ、これを解散させるために出動した。電車部隊と山越部隊との合流を終えたデモ隊が、初めて警備部隊と接触したのである。吹田市警本部及び警備部隊の指揮者は、デモ隊の人員数及びその武装程度に対する認識がなく、且つ、山越部隊の笹川良一方、中野新太郎方の襲撃の情報を把握しておらず、デモ隊員の対敵意識についてその認識がなかった。僅か一三二名の警備部隊をもってしては、完全に近い武装をなし、緒戦を飾ろうとの対敵意識に燃え上がっている約一、〇〇〇名のデモ隊員に対しては、先制警備の措置をとることは思いもよらないことであった。デモ隊に関する警備情報を完全に把握しないで、これを制圧しようとしたところに、吹田市警警備本部の誤算があり、現場警備隊のデモ隊員に対する気おくれと無気力とを生じ、簡単に押し切られてしまったのである。

 

 検察側の警備批判もこの辺になると論旨が支離滅裂である。山越部隊と電車部隊の合流によるデモ隊の規模拡大と隊員の志気高揚によって、吹田操車場突入阻止ラインが突破されことは事実だが、その責任を吹田市警に求めてみても無理な話である。警備本部の情報判断と指令伝達の過失は前夜から連続して起きているわけであって、そのツケが全部吹田市警に廻ったことに失敗の本質がある。検察側の記述はつづく。

 

 須佐之男命神社前の産業道路上の警備線に現実に立ってその進路を阻む態勢に出たのは吹田市警職員三二名(場所は国警三島地区署の管轄内であるに拘わらず)と、管区学校応援部隊の指揮者のみであって、管区学校応援隊は殆どが自動車に乗車したままだった。此処に派遣出動した全員が、旺盛なる志気の下に警備線に立ち、一三二名の人垣をもってこれを阻止する態勢に出たならば、かくも簡単に産業道路を突破されるがごとき事態は生じていなかったであろう。デモ隊に関する情報の欠如から、解散命令により容易にデモ隊の行進を阻止し得ると判断した現場指揮者の悪判断は否定できぬところであろう(「検察資料」九〇頁)。

 

 これは机上の暴論と言わねばならない。仮に批判どおり警官隊一三二名をもって産業道路上の警備線で徹底規制の実力行使に出たとしよう。竹槍と火炎瓶で「武装」した千数百名のデモ隊は一挙に一三二名の警官隊を産業道路上に押し出し、又は押し倒して制御不能の大惨事が発生したかもしれない。形勢不利な警官隊の発砲は避けられず、双方に多くの死傷者が出ることは必然である。道路を越えて南下すると、社参道から新興住宅地内の小道を右に折れて二〇〇メートルほどの南前方に吹田操車場の北側フェンスが見えた。道は細い下り坂の一車線でその先方が操車場の地下道を潜るトンネルになっている。南北片道一方通行で段差とガードレールに遮られた人と自転車の専用通路であった。これがデモ隊が通り抜けた竹之鼻ガードである。

 

 「検察資料」はこの付近の状況を次のように記述している。

 須佐之男命神社前の警備線を突破した集団は、午前六時前頃、同町字竹之鼻通称竹之鼻ガード前に至ったところ、同所地下道入り口の台上に、派遣されて暴徒の吹田操車場侵入を阻止するため警備していた国警大阪府本部巡査部長K外九名の警察官を発見し、一旦停止して「売国奴」「アメ公の手先」等と口々に罵言を浴せ、或いは「敵はガス弾を持っているぞ」等と叫び、再び隊勢を整えスクラムを組み、駆足で地下道に向けて突入した。その際、集団中から警察官に対し目潰し弾(唐辛子粉)、石、木片等を次々と投げつけ、I、A等は火炎瓶、ラムネ弾等を投げつけた。数個の火炎瓶の中、Aの投げた一個はK部長の足元に落下し、爆発発火して焔を挙げ、硫酸液が周囲に飛散したため、K部長外三名は、右濃硫酸による腐触により、治療約二週間乃至三週間を要する傷害を蒙った。

 

 そして、次のように指弾している。

 デモ隊が吹田操車場竹之鼻ガード下を通過する際、同所を警戒中の三島地区署員に火炎瓶を投擲し、負傷者を出した。この時何故携帯していた催涙ガス弾を使用しなかったか。デモ隊員中にも「ガスを持っとるぞ」と警告を発した者もある位であり、後で取り調べた被疑者の中には、竹之鼻ガード下で挟撃されたら駄目だったと思ったと語ったものもあった位である(「検察資料」一九頁)。

 

 僅か一〇名程度の警官が千数百名のデモ隊に催涙弾を投げたらどうなるか。最初の牽制程度の火炎瓶投擲に止まらず、怒りに燃えたデモ隊員の衝動によっては、警官の生命すら危ぶまれる事態が生じたであろう。仮に警官隊が多勢であったとしても、狭い地下道に入ったデモ隊に催涙弾を投げたら、地下道内のパニックによって大量死者に結びつく大惨事になったかもしれない。危険な挑発的言辞と言わねばならない。

 

 約二〇〇メートルの地下トンネル竹之鼻ガードをぬけたデモ隊は、操車場の南側を走る東海道線沿いの道路を右折して隊列を整え、再び太鼓を叩き、歌を高唱しながら五〇〇メートル程先の岸辺駅へ向かった。

 

 

 

 国鉄岸辺駅は、今のJR東海道線に併走するJR京都線の吹田駅と千里丘駅の中間に位置する小さ駅である。吹田操車場は千里丘駅から吹田駅まで約六キロほどの長い距離を、ちょうど蛇が大きな獲物を呑み込んだような形の敷地である。総面積は七六万坪というから甲子園球場二〇個分に相当する。今では一九八四年(昭和五九年)に国鉄貨物が物流構造の変化によって廃止され、同時に操車場も撤去されて広大な荒野と化している。住宅開発や企業誘致の跡地利用が周辺自治体の課題になっているが長期不況と財政難のため放置され雑草が生い茂っている。吹田操車場の歴史を遡れば、第一次世界大戦以来の日本の経済発展によって、物資の荷動きが活発になり、一九一九年(大正八年)に建設が開始され一九二三年(大正一二年)に操業した。その後のあいつぐ拡張によって太平洋戦争中の一九四三年(昭和一八年)には一日八、〇〇〇両を有する操車場に発展し、戦後は一九五二年(昭和二七年)になって朝鮮戦争向け武器軍事輸送の需要が増大した。軍用臨時列車の増発に伴う操車の効率化と危険防止のため坂阜(はんぷ)入れ替えの貨車減速装置(カーリターダー)が完成し、名実ともに東洋一の操車場になった(『郷土吹田の歴史』吹田市)

 

 日本における朝鮮戦争準備は、一九四九年(昭和二四年)から連合国軍司令長官マッカーサーによる在日朝鮮人団体、全労連の解散命令から、国鉄労働者の大量首切り、国鉄労働組合弾圧から始まる。三鷹事件、松川事件、下山事件などの謀略事件をテコに日本共産党と左派系労働組合を叩き、一九五〇年六月の全産業のレッド・パージ、日本共産党中央委員の公職追放を断行する。日本共産党は事実上非合法体制に入った。

 

 朝鮮戦争の日本国内の輸送拠点となった吹田操車場の職場でも、レッド・パージと軍需輸送反対の厳しい闘いが展開された。

 朝鮮戦争に反対する闘争は、国際的連帯は無条件だという立場だった。加えて、日本は朝鮮戦争に協力している。軍事生産はフル回転、爆撃機は日本から飛び立ち、吹田操車場にはナパーム弾や戦車など、軍需物資が積み込まれた列車があった。労働組合も協力していた。党は爆弾や軍事物資の輸送を阻止するのは絶対任務だと、現場で職場闘争を続け、寮でも個別に労働者を工作し、職場に核ができてきていた。その全組織をあげて、党は戦争体制と闘うということ―軍事列車を止めること―を決議した。この会議の場所は、吹田の阪急千里山線に沿った清和園の奥田という人の家だった。それを指導したのは関西指導部の岡本秀一だった。彼は一九五六年に死去している。

 

 北摂地区の真の責任者だった別所は、一生懸命工作して国鉄の職場の中に細胞を作っていた。この虎の子の組織を全部前面に出さなければ闘争はできない。しかし、軍事列車を止めたら捕まって軍事裁判にかけられるか、捕まらなくても首になることは目に見えて分かっている。彼はそのとき、国鉄富田寮に全細胞を集め、「俺の手をやる。俺の腕を切ってくれ」「俺も一緒に片腕になる」「覚悟してくれ」と泣いてアジった。理屈も何もない。泣いてやってくれと、まるでヤクザと一緒だ。職場の活動家は皆泣いた。なぜ泣いたのか悔しかったのか怖かったのか分からないが、泣きながら「よしわかった」と覚悟を決めた。吹田操車場の下りハンプ(坂阜)で山猫スト(労組指令のない非合法スト)を起こしたが、短時間の混乱が起こっただけで活動家全員飛ばされてしまった(前掲『上田総括』六八、六九頁)。

 

 「関西活動者会議」(一九五〇年二月)の報告が付記されている。

 吹操を止めることによって四〇名の行動隊を取られることに躊躇した。然しあらゆる犠牲を払っても吹操をとめることに決定し、下り坂阜の党員を中心に助役の不正をつき、レッド・パージをするか否かを大衆の中で喧嘩する。一里半の線路の中を四〇名の行動隊は小屋を取り巻いたため、一時間半汽車を止めさす。(中略)この間職制がスキャッブになって貨車を落として行った。行動隊員がこの仕事を見て闘争を一時忘れ、面白く見ていた傾向があった。行動隊は職場の中のことを知らないために、貨車が落ちていくことが闘争が負けになることを知らなかった(前掲書)。

 

 覚悟を決めるのはいいが、幼稚で犠牲の多い戦術だった。操車場職場から組合の活動分子を追放し右派幹部で分会を固める工作は朝鮮戦争で定着したといえる。現在のJR岸辺駅前の風景は、左前方に電柱や建設基礎パイルが積み上げられた近畿コンクリート正面右前方にレンガ色の建物の大阪学院大学がある。駅の西側は地下道を潜って北側の府道大阪高槻京都線に通じる道路が貫けていた。旧吹田操車場に通じる道は地下道の歩道を一〇〇メートルほど進んだ所に地上に出る階段がある。わたしは階段を上って荒野となった旧吹田操車場の風景を眺めた。五〇年の歳月を感じた。

 

 デモ隊側と検察側の資料から吹田操車場構内のデモ隊突入を追ってみよう。

 六時すぎ警察側の最初の弾圧を実力で突破したデモ隊は、太鼓を打ちならし、隊を組んで南下し、吹田操車場下のガードを抜けて新京阪電鉄側へ出、大阪特殊鋼工場前を右に折れて六時一五分、国鉄岸辺駅西側から赤旗を先頭に整然と構内に入り、貨車の立ちならぶ中を操車場の中央に向かってデモ行進をしたため操車場作業は一時中止され、国鉄の労働者は職場を放棄してデモ隊を見守った。要所要所に配置された警官、鉄道公安官等に乗ずるすきをあたえず、吹操のスピーカーが“構内立入りは法律で禁じられていますから出て下さい”の声にもかかわらずデモ隊は堂々と“上がり到着”“上がり坂阜”を通過し、再び国道に出て吹田駅に向かった(「労農共同デスク特報」昭和二七年六月二九日発行)。

 

 やっと気付いてかけつけた一二〇名のポリをなんなくけちらして一気に吹操になだれこんだ。「軍臨はどこだ」「吹操の労働者よ武器を運ぶな」夏季手当をかちとれ! 売国奴、ダラ幹をやっつけろ、徴兵反対! 等々スローガンを叫びながら約三〇分デモをつづけて外へ出た(『若き戦土日本民主青年団大阪支部発行の機関紙、一九五二年七月一日付号外』。

 

 六時頃、吹田に入り夜行軍してきた他の一隊と合流し、吹田操車場に堂々と突入した竹槍のデモ隊が、構内をジグザグデモで進む。国鉄の労働者も仕事をやめて俺たちを歓迎する。「オーイ、軍臨はどこだァ」デモ隊のよびかけに国鉄の仲間は悔しそうにこたえる。「いま丁度入構していないんだ」それでも、入れ替え作業は三五分間完全に止まった。俺たちの実力で軍臨の最大の牙城を制圧したのだ。見ろ! ポリも手が出ないじゃないか(『国鉄の友』七月四日付、第一七〇号)。

 

 吹田操車場には非常サイレンがけたたましく鳴りわたった。アジア侵略のための軍事輸送動脈吹田操車場の軍事作業はついに停止した。「戦争反対!」「軍事輸送やめろ!」「労働強化反対!」「軍用列車はどこだ!」と絶叫しつつデモ隊は駅中央を突破した。警官は手出しできずにいる。走りゆく機関車の上から「がんばれ」と手をふり激励する国鉄労働者の姿が見える。非常サイレンはひきつづき鳴っている。「畜生!」いちはやく連絡を受けた国鉄幹部の売国奴どもは、デモ隊のくる事を知り軍用列車を他に移したのだ。どこにも軍用列車はない。このうえは一人でも多くの人に日本民族の独立と戦争反対を訴えねばならない(前掲「吹田事件現地ルポ・闘いの記録」日本国民救援会大阪本部、在日朝鮮人解放救援会発行)。

 

 岸辺駅前を通過した集団は、同駅西方約一八〇米の地点より同駅構内に入り、上下旅客線を横断し、午前六時一八分頃喚声を挙げて吹田操車場構内に侵入して、上り坂阜方向別線を横断しながら北進し、更に東進して、上り坂阜運転掛室前を通過し、上り押上線に沿って第三信号所前を通り、約二〇数分間に亘り同操車場構内において行動し、午前六時四三分頃坪井ガード付近より場外に退出した。その間暴徒集団は喚声を挙げ、国鉄職員に「軍臨を止めろ」「アメリカの武器を運ぶな」「アメ公の手先になるな」「職制反対」等と高声で呼びかけ、或いは警備中の警察官、鉄道公安官等に対し「犬は帰れ」「ポリ公帰れ」等と罵声を浴びせて投石し、軍用品積載貨車を探索しながら行進し、途中第三信号所前を通過する際同所に投石し、二階窓硝子を破壊した。

 

 当時吹田操車場においては、事前に暴徒の吹田操車場襲撃の情報を入手し、これを予期して警備を強化しており、暴徒集団の侵入と同時に非常サイレンを吹鳴して警戒に当たったが、竹槍、棍棒等で武装した約一、〇〇〇名に近い集団の威力に圧倒され、その侵入を阻止することはおろか、なんら手の施す術なく、なすがままにせざるを得ない状況であった。幸い集団の目標とした駐留軍貨物積載貨車約三〇輌は、同駅長の指示により予めこれを待避させ隠蔽していたので発見を免れ、集団は軍需列車の破壊の目的を達することができなかった。しかしながら、当時上り坂阜おいては第六二四列車の転送作業を実施中であったが、集団の侵入のために作業を継続することができず己むなく作業を中止し、下り坂阜においては、午前六時頃集団が岸辺駅に向かって前進し、吹田操車場に侵入せんとする形勢にあるのを目撃し、折柄転送作業の第九九八一列車の転送作業を中止し、集団が場外に退出して後始めて作業を再開し、結局集団が吹田操車場に侵入したため、上り坂阜においては一八分間、下り坂阜においては四五分間、それぞれ転送作業を中止するの己むなきに至り、その間鉄道の業務が妨害された(「検察資料」第一章、待兼山集会及び吹田騒擾事件の概要、一一頁)。

 

 デモ隊側の記述には、いずれも捜査当局の弾圧を警戒して別働隊の行動には一切ふれていない。たとえば、検察側の記述には(デモ隊が)「軍用品積載貨車を探索しながら行進し」とか「集団の目標とした駐留軍貨物積載貨車約三〇輌は、同駅長の指示によ予めこれを待避させ隠蔽していたので発見を免れ、集団は軍需列車の破壊の目的を達することができなかった」というくだりがある。

 

 デモ隊が操車場構内に突入してから、実際には軍需列車の探索隊が動いたのは事実だし、軍需列車を発見した場合には、列車の前に体を投げ出す覚悟の別働隊がいた(後述)。しかし、警察の警備記録には「三・五五 七一七一列車は予定の三時五一分に車票を裏返しのまま神戸港に向け出発した。(吹操)」の記載がある。これはデモ隊の情報が洩れての避難だったのか、それとも予定の運行だったのか。三帰省吾の言う「大山崎の列車襲撃の中止」とは何だったのか。その真相は今だに不明である。

 

 

 

 吹田操車場構内を岸辺駅から千里丘駅方面に向かって行進したデモ隊は、午前六時四三分頃、千里丘駅手前二〇〇メートル程にある坪井ガード付近から北側構外に出て、さらに二〇〇メートル北進すると味舌町坪井一三〇番地付近の産業道路に出た。そこから西方向の吹田市内に向かって行動を開始し、六時五〇分頃、須佐之男命神社の東側、千里丘小学校前付近に差しかかった時、産業道路を京都方面に向かって一台の乗用車が疾走してきた。その乗用車には駐留軍西南地区司令官米軍陸軍准将カーター・ダブリユー・クラークが搭乗していた。これを目撃したデモ隊員が喚声を挙げて路上に飛び出し、いっせいに石、木片、竹棒、硫酸瓶を投げつけた。乗用車は全力疾走してその場を通過したが、投げつけられた棒は車の車の風防ガラスを突きやぶり、硫酸液は車内に飛散し、同准将は顔面に治療一九日間の傷害を負った。同准将がなぜその時刻、その場所を乗用車で疾走してきたのか、いまだに謎である。

 

 同じく午前七時二〇分頃、吹田市岸部小路三九三付近で堺キャンプ所属米軍陸軍軍曹ロバート・ゼイ・ビーン搭乗の乗用車が京都方面に向かって疾走してきた。これもデモ隊員数名が石塊や棒切れを投げつけ、車の風防ガラス、左後ドアガラスを破壊し、さらにその衝撃で車体に若干の損害を与えた。

 

 午前七時一〇分頃、デモ隊が吹田市内に入り同市岸部小路の吹田市消防署岸部出張所に差しかかった時、デモ隊後方を追尾していた茨木市警ウィーポン車が、急にデモ隊に割り込んで前方に出ようとした。車内には同署警察官二八名が搭乗していた。これを見たデモ隊は喚声を挙げて車の走行を妨害し、いっせいに投石を始め、火炎瓶、ラムネ弾が車内に投げ込まれた。

 

 石礫は警察官の身体、鉄帽、車体に当たって音を立てて跳ね返り、火炎瓶は発火炎上して車内は火の海と化した。乗車していた一〇数名の警官が火達磨となって車外に転落し、危難を避けようと路上に飛び降りた。ウィーポン車は車外に落ちた警官を見捨てて急発進し前方吹田方面に走り去った。後方追尾中の警察官は茫然自失してこれを見ていた。

 

 車外に転落した警察官および路上に飛び降りた警察官は、デモ隊に取り囲まれ投石、殴打されるなどの暴行を受けた。さらに、逃走した警察官は追い駆けられ、逃げ遅れた警察官は竹槍で突かれ、棍棒で叩きのばされ、気を失い、拳銃二挺が奪われた。また、近くの民家に逃げ込んだ警察官は、追い駆けてきたデモ隊員によって火炎瓶を投げつけられた。

 

 以上により、茨木市警二七名の警察官はそれぞれ治療一週間ないし四週間の火傷、打撲傷を負った。その内訳は治療三週間三名、治療二週間六名、治療一週間一八名、うち四名が入院治療を要した(一九五二年六月二七日茨木市議会速記録)。

 

 前掲の『上田総括』は、この場面を次のように記述している。

 岸部から国道を吹田に向かっていたとき、デモ隊の後方からウィーポン車に乗った茨木警察の一隊がデモ隊を追い越して先頭に出ようとした。これに対して火炎ビンで攻撃を加えた。警官は車から転げ落ち、田植えをしたばかりの田圃へ逃げ込んだ。火傷した警官が逃げられずに路上に転がっている。デモ隊員はそれを竹槍で突こうとした。隊長だった私はそれを止めた。日本人は止めた。朝鮮人は何を言うか、やってしまえと、ピストルも全部奪ってしまった。

 

 日本人は巡査をやっつけろと火炎ビンを投げたけど、殺す気はなかったから、無抵抗になった奴を竹槍で突くことはできなかった。朝鮮人は突いた。止めたら日本人は言うことを聞いたが、朝鮮人は怒った。その差がいまだに分からない。民族が違うからか。私の思想が中途半端だからか。殺してしまってもよいというところまでにはなっていないことは事実だ。ビビった。その差というのが、いまだに分からない。私たちはそれほど怒ってないのだ。攻撃してくる警官に対しては実力で対抗するが、殺してしまえという憎しみまではなかった。今もない。このことが、いまだに心の底にひっかかっている。

 

 三帰省吾と夫徳秀は、あうんの呼吸でデモ隊の統制を強化し、一切の火炎瓶の使用を禁止した。怒りのおさまらないデモ隊員は、岸部巡査派出所、片山巡査派出所、片山西巡査派出所の三カ所の派出所を襲撃しているが、窓ガラスや電話機等を打ち壊しただけで火炎瓶は投げ込んでいない。

 

 「検察資料」は、警察警備を次のように批判している。

 産業道路上で茨木市警ウィーポン車が火炎瓶による攻撃を受けた際に、これに追随していた管区学校生徒応援隊が、目前に同僚の受けた惨状を見ながら、拱手傍観の態度をとったことは黙過できぬものがある。この原因は、現場責任者の吹田市警松本警視が、管区学校応援隊の指揮者吉井警視に全く連絡なしに、単独に茨木市警ウィーポン車でデモ隊の側面を強行突破しようとした現場責任者としての責任ある地位にふさわしくない措置であったにしても、茨木市警員の受けた暴行を目前にして看過したことは、警察官としては遺憾極まることである。警察官の弱腰に勢いづいたデモ隊員は、片端から沿道の吹田市警の派出所を襲撃したのである。

 

 しかも、なお、管区学校応援隊はデモ隊の後尾に追随するのみで、全く積極的行動に出なかったのは全く言語同断の措置というべきである。これは現場における指揮官の指揮が十分でなかったとか、指揮が悪かったとかの問題ではなくて、警備部隊全員の志気沮喪の結果である。この原因は、警備本部の待兼山集会に対する取締方針の日和見的な事なかれ主義的な無定見さに淵源するものであると考える。すなわち、恐らく管区学校応援隊は、デモ隊員の検挙というがごとき事案の起こることを指示されもせず、又予期もしなかったので、茫然なすところを知らなかったのであろうと推察されるのである。しからずしては、苟しくもしくも警備部隊として出動した警察官として放任し得ない事態である(「検察資料」第六章、警備情報と警備活動について、九一頁)。

 

 批判された管区学校応援隊とは前項「山越部隊と電車部隊」で先述した「中間隊」のことである。批判されるべきは警備本部であって、同隊の士気喪失は警備本部の失態の結果であったと言うべきであろう。

 

 

 

 デモ隊が吹田操車場を脱出してから、産業道路を吹田方面に向かって行進する途中、これは資料や記録には出てこないが、事件関係者の間で語り継がれてきたエピソードがある。府立春日丘高校定時制グループの「パン事件」である。前掲『上田総括』に次の記述がある。「吹田事件当日の早朝、府道をデモしていたとき、パン屋に勤めていた配達中の春日丘定時制の生徒、田中龍男が感激して配達中のパンをデモ隊に配った。目立った彼は一番先にやられた。今はどうしているだろうか。そして、あっというまに二日ぐらいで全部やられてしまった。二〇人ほどいたがそれが壊滅して、そこを突破口にして方々へ弾圧が拡大された」。

 

 わたしが、上田等から聞いた話をすこし付け加ええよう。田中少年は早朝アルバイトのパンの配達中に偶然デモ隊に遭遇した。よく見るとデモ隊の中に春日丘高校定時制の学友たちが大勢いるではないか。彼はとたんに興奮してしまって、自分が仕事で配達中のパンを学友たちにバラまいたのである。みんなすき腹だったから歓声を挙げてパンにかじりついた。ところがその際に彼の顔は警備中の吹田市警の警官に覚えられてしまった。パン屋に戻ったところを待伏せしていた警官に捕まった。田中君は活動家ではなく普通の生徒だったから、警察の取り調べで全部学友たちの名前を喋ってしまった。春日丘定時制グループのデモ隊参加者二〇数名は全員逮捕され、七名が起訴された。

 

 府立春日丘高校定時制グループには、国鉄労働者が多くいた。グループの指揮者だった斎藤信夫はレッド・パージ後に退学していたが吹田機関区の機関助手や貨物乗務経験のある元国鉄労働者だった。わたしは吹田事件裁判の頃から彼の顔をよく知っていたが、この二〇年ばかりは地域で知り合い、わたしの市会議員当時の後援会長でもある。以下は元吹田事件被告斎藤信夫の聞き取りメモである。

 

 一九三〇年生まれ、吹田事件当時二二歳(現在七二歳)。出身は東京都の両国だが、高槻市上田部町に住んでいた。父親は大工だった。一九四四年(昭和一九年)国鉄入省。吹田機関区に入り、機関助手になる。玉造、竜華、吹田で貨物列車に乗務する。一九四八年(昭和二三年)日本共産党入党、府立春日丘高校定時制に入学、党春日丘高校定時制細胞をつくる。一九五〇年レッド・パージを受ける。同年前歴を隠して(近所の石屋の番頭をしていたことにして)国家公務員試験にパス。逓信省電通局(後の電電公社)に入省した。船場、北浜、南電話局に配属される。吹田事件には春日丘高校定時制細胞から要請されて参加、指揮者にされる。共産党の「五十年分裂」では国際派に属していたが、出身細胞から頼まれたので断れず引き受けた。同校グループは箕面駅に集合し待兼山まで歩いて行った。山越部隊に参加し本隊の後尾についた。

 

 山越部隊で印象に残っているのは警察予備隊前で隊員が銃を構えたこと。吹田操車場では軍臨列車の探索班を引き受けたこと。操車場に侵入したのは、竹之鼻ガードのフェンスを越えたところ。吹田操車場構内の勝手は分かっていた。しかし、軍臨列車は避難しており一輌も残っていなかった。「パン事件」で捕まった田中龍男の自供からメンバー全員が逮捕されたが、彼を恨んでいる者は一人もいない。あのシーンは生涯忘れられない思い出になっている。結局、起訴されたのは全員党員で、民青団員やその友人たちは不起訴になった。茨木市警のウィーポン車襲撃事件は、後尾にいたので参加していない。

 

 吹田事件で逮捕されたが電通は休職扱い、給与も六〇%は支給された。起訴後は全額カット。判決で無罪になったので全額弁済させた。裁判は二〇年かかったが、仕事は国際新聞とか共同印刷とか、左翼系、労働組合関係で共産党細胞の強い職場だったから、他の被告と比較して生活的には恵まれていた。共同印刷内の共産党抗争のあおりで除名。日ソ旅行社をやってソ連・東欧を旅するうちに社会党、労働組合の人間関係が広がる。吹田事件元裁判長の佐々木哲蔵氏の要望で夫人の佐々木静子参議院議員(社会党)の第一秘書を引き受ける。その後、社会党衆議院議員井上一成の秘書を長くつとめた。退職後、神戸市のオーケストラ創設に従事してマネージャーを一五年、今も現役である。夫人は元教師、大教組元婦人部長をつとめた活動家であった。

 

 斎藤信夫の人生は、無欲でお人好し。いつも貧乏くじばかり引いている。苦労人だが暗さを感じさせない。妥協と関係の幅の広さは無原則のようであるが、考え方の軸は揺らいでいない。これを思想性と言うのだろうか。

 

 

 

 吹田市警警備本部は、産業道路を完全に制圧したデモ隊を逮捕する手段は、人家の途切れた吹田駅北側のアサヒビール吹田工場裏の産業道路上で応援を得た警官隊をもって挟撃するしかないと考えた。そして、午前七時三五分、大阪市警視庁応援部隊二〇四名を西前方の吹田市役所前道路上に配備し、さらに左折して南前方二〇〇メートルの産業道路国鉄ガード下に、国警大阪府本部警察学校応援隊八〇名と自署二小隊二五名を配備してデモ隊の接近を待ち受けていた。デモ隊後方を追尾する国警管区学校中間隊一三二名と同桑田隊一三〇名によって挟撃する作戦であった。

 

 しかし、デモ隊の先頭部隊が前方吹田市役所前に大勢の武装警備隊が拳銃を構えて待機しているのを目撃するや、指揮者は咄嗟に進路を変更して、手前の伊丹街道交差点を左折して日通吹田支店西側の狭い道を南進するや、国鉄西之庄ガードを潜った。このガード出口にも拳銃を構えた警官の一隊が待機していたが、予期せぬデモ隊の出現に驚いて簡単に道を開けた。デモ隊は一瞬緊張したがこれを突破して、東方向三〇〇メートル先の吹田駅に向かって早足に進んだ。

 

 肩すかしを喰った吹田市役所前の大阪市警視庁応援隊は慌てて吹田駅に移動したが、デモ隊は流れ解散をして大部分は吹田駅構内に入った後であった。産業道路国鉄ガード下に待機していた府警警察学校応援隊は、いくら待ってもデモ隊は姿を見せず、連絡もないので仕方なく吹田市警察署に引き揚げた。吹田市警警備本部は午前八時現在、大阪市警視庁、府警警察学校の応援隊等、総勢七七〇名の警備隊を産業道路上に配備しながら、一名のデモ隊員も逮捕することができなかった。

 

 検察側は、この警部隊の対応を次のように批判している。

 最後に産業道路アサヒビール裏付近の挟撃作戦が、デモ隊に察知されて進路変更のため実施できなかった不運があったが、なお側面より突っ込み、デモ隊を検挙することは、その機会が残されていたのであって、しかもその挙に出なかったのである。これは吹田市警警備本部が現場部隊に中止を要請したか、現場部隊の独自の判断に因るものであったかはとも角として、デモ隊捕捉の最後の機会を逸したものとして惜しまれてならない(「検察資料」九一頁)。

 

 はたして、吹田市警警備本部はデモ隊挟撃作戦なるものを、実際に実行する気があったのかどうか疑問である。なぜなら警備本部が配備した警備隊は最初から武装デモの威力に圧倒されて、その志気は完全に喪失していたのであって、新たに投入した大阪市警視庁応援隊及び府警警察学校においても、デモ隊の転進という隙があったにもかかわらず検挙行動が取れなかったのである。警備部隊は完全にデモ隊の勢いに圧倒されていたと言える。

 

 しかし、午前八時過ぎ、惨劇は吹田駅構内で起こった。デモ隊は同駅手前で流れ解散となり、大阪方面に帰るデモ隊員は同駅西改札口から大阪方面行きの下りホームに入った米原発大阪行き八時七分、吹田発第九一一列車(一三両連結)内に喚声を挙げて乗り込んだ。その後を突然警官隊が拳銃を構えて突入してきたのである。先に列車に乗り込んでいた三〜四〇〇名の乗客は、車内を逃げ惑い、列車の窓から飛び出し、ホームに降りて改札口方面や上りホームに逃げたり、反対側の線路に飛び降りて北側のアサヒビール倉庫付近まで逃げた。

 

 デモ隊員は乱入した警官に対して竹槍、棍棒で応戦し、ホームの警察官に向けて火炎瓶、硫酸瓶、ラムネ弾等を投げつけた。デモ隊員、警官が大勢負傷した。巻き添えを喰った乗客にも怪我人が出た。この混乱の中でデモ隊員二三名が逮捕された。デモ隊の大半は午前八時一六分、九分遅れで発車した第九一一列車に乗り込んで大阪駅に向かった。また、ホームの反対側の線路に飛び降りて線路の中を隊列を組んで行進し、東淀川駅から淀川鉄橋方面に逃げた隊員たちもいた。

 

 吹田駅構内に突入した警官隊の一団は、ホーム上に伏せの姿勢をとってデモ隊員を狙い撃ちし、発射した弾丸が砂埃を上げ地上をかすめていくのを目撃している。また、列車の窓から警官が拳銃を車内に向けて、満員の座席にうずくまっている隊員を狙って発射するなど、明らかに報復の襲撃であった(吹田細胞から参加したデモ隊員日角八十治氏の話)。

 

 吹田駅構内に拳銃をかざして突入した警官隊は、日野吹田市警察長指揮する吹田市警警備隊、茨木市警警備隊の一部、国警警察学校多田隊の一部約三〇名であった。この指揮者と警備隊の構成からみて、本件警備作戦の失敗を挽回する吹田市警察長の面子と独断で臨時に編成された報復の攻撃隊であった。「検察資料」ではこの襲撃中に警官隊五名、乗客二名の負傷者が出たとしているが、警官隊の拳銃の使用、デモ隊員の負傷者が多数逮捕されていることは一言も触れていない。その証拠に逮捕された負傷者のデモ隊員は意図的に不起訴にして裁判での争いを避けている。

 

 検察側も、「デモ隊の検挙の時期、方法については多くの問題があった」と認めながらも次のように述べている。

 吹田市警警備本部で本件を直ちに騒擾罪として検挙する決断がついておったならば、吹田駅及び大阪駅構内におけるデモ隊の検挙を満員の通勤列車内において、僅かな停車時間内に行うという最も不利益な態勢において実施しなければならない状況に追い込まれることはなかったと考える。

 

 騒擾罪適用の判断に論点をすり替えているが、警備本部が本件において全体の警備作戦に失敗したこと、言い換えれば六・二五闘争のデモ隊側の作戦とその志気において完敗したことを認めている。この吹田駅構内での警官隊の凶暴なデモ隊襲撃の実態は次のデモ隊側の資料で明らかにされている。

 

 車は約一〇分発車が遅れた。その間決死隊らしいポリ三〇名がピストルをにぎってホームへかけ上がり、列車めがけてめくらうちに発砲した。列車の中は混乱した。俺たちは奪ったピストルと棒切れで応戦した。大衆は奴らのデタラメ極まる残虐な行動にふんげぎしていた。一人の団員はポリ公にピストルをつきつけられた。隣にいた上品な婦人が私の弟ですといってかばってくれた。その時うしろからポリ公めがけて火炎瓶が飛んだ。ポリ公は火だるまになってころげおちた(前掲「労学共同デスク特報」昭和二七年六月二九日発行)

 

 八時、デモ隊は一人の犠牲者もなしに吹田駅プラットホームから八時六分発の列車にのった。発車の汽笛がなった。そのとき吹田駅西口に結集した六〇〇名の武装警官は、発車せんとする列車をとめてこれを包囲した。そのピストルはいっせいに列車の人々にむけられた。列車は一瞬にして「あびきょうかん」の修羅場と化した。乗客はだれもがわれさきにと逃げ出した。「パンパン」ピストルがうたれた。二五歳ぐらいの青年が左下腹部をうたれてのけぞった。それにおそいかかる警官をめぐり、全身血にまみれての闘いとなった。だれかが「逃げるな!闘え!」と叫ぶ。婦人が「助けて!」といっている。ピストルがうたれる、火炎瓶が火を吹く。警官にとりまかれた青年がめちゃめちゃにたたかれ、けられ、ふみつけられている。プラットホームの上には、ベットリと血がかたまり流れている。その血の上をひきずられていった負傷者のあたらしい血が、プラットホームへのぼる階段に点々と流れている(前掲「吹田事件現地ルポ・闘いの記録」日本国民救援会大阪本部、在日朝鮮人解放救援会発行)。

 

 「列車が動くか動かぬうちに武装警官が来て犯人を捕らえるから止めてくれという。私が意思表示をしないうちに機関手のほうへ行き、機関手が躊躇している間に事実上混乱した」(岡吹田駅長)、「この汽車は発車せんからみな降りてくれというので心配して座っていると入り口から警官が入ってくるし、窓のほうからピストルをつきつけてきて出てこないとうつぞというし……」(元被告)、「一番前の車に乗ったが、たくさんの警官がきて窓の外から車内に上半身入れて棍棒で殴りはじめ、私も頭を殴られその上ピストルで撃たれて右大腿部貫通銃創で治療に四か月かかった」(S証人、不起訴者)、「警官が来るまでは車内は別に混乱していなかった。警官がはいってきてわっとなり、恐いので外に出ようとしたら警棒で頭を殴られ血が流れた」(筒井証人、通勤客)、「二、三両目の真ん中辺に乗ってもう発車してもいいころと思っているとき、警官隊が殺到して、列車の中に入ろうとする者、ピストルを開いた窓から突きつける者……。それで車内はめちゃめちゃに混乱した。そのうち車内に向けて発砲(二、三発)したためにその一発が当たって私は卒倒した」(K証人、不起訴者)。

 

 「警官が乗客を全員降ろしてくれというので放送しているう間に、何かがちゃがちゃにしてしまってわけがわからんようになった」「お客さんを怪我させてはいけないので、ホームから誘導するなどして八、九分通り降りた頃に警官が車の中から火だるまになって飛び降りた」(西野旅客主任)、「警官がホームに上がってから拳銃の音が二、三発以上聞こえ、それから火炎瓶というかデッキのあたりで火を吹いたように見えた」「ピストルの音がしてから乗客がデッキから飛び降りるのを見た」(山崎証人、駅前金物店主)、「警官が来た瞬間はホームは混乱していなかった。事務所で電話をかけていると拳銃音が四、五発した。外へ出てみるとお客さんがわーとなだれて工場の方へ逃げてきた」(黒田証人、ビール会社主任)(「「吹田事件」と裁判闘争」吹田事件文集刊行委員会、一九九九年)。

 

 吹田駅を出発した九一一列車は約九分遅れて、午前八時二五分、大阪駅に到着した。デモ隊は竹槍、棍棒、火炎瓶、ラムネ弾等多数の「武器」を車内に残して全員下車した。午前八時二〇分頃、大阪警視庁は吹田市警より吹田駅から乗車したデモ隊の検挙要請を受けて曾根崎署長を指揮官とし、曾根崎署員を主体とする一二〇名、同署に待機していた機動隊一〇二名、合計三二二名の警備隊を大阪駅に出動させ、デモ隊の検挙に当たった。デモ隊は大阪駅構内を縦横に逃げ回り、城東線や西九条線に逃れて乗客の中に潜り込み、吹田駅同様拳銃と火炎瓶の応酬する衝突が展開された。その結果三帰省吾以下四名が大阪駅で、夫徳秀以下一四名が城東線桃谷駅で逮捕された。残りの隊員はそれぞれ乗客に紛れて警官の包囲網を脱出した。

 

 

 脇田憲一略歴

 

 1935年愛媛県に生まれる。1952年6月、17歳で枚方事件に参加、検挙される。保釈後、高校中退して山村工作隊(独立遊撃隊)に入隊。奈良奥吉野、大阪府下で山村工作、基地工作に従事。1955年7月「六全協」後、鉄鋼・金属の労働組合運動に入る。1973年総評地方オルグとなる。1985年北摂生活者(トータル)ユニオン理事長、北摂・高槻生活協同組合理事長を経て1995年高槻市議に(1期のみ)。思想の科学研究会員。新日本文学会員。69歳。

 

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 (関連ファイル)

    脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」

 

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』

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    由井誓  『「五一年綱領」と極左冒険主義のひとこま』山村工作隊活動他

    増山太助『戦後期左翼人士群像』日本共産党の軍事闘争

    れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』